
江戸時代の宿場の発達
木曽路は、鎌倉・室町時代までには信濃と京都・伊勢などを結ぶ重要な通路として発展していたが、江戸時代には、五街道の一つ中山道の街道整備とともに木曾11 宿といわれる宿場が発達した。寝覚の床、桟、鳥居峠から遙拝する御嶽山など木曽谷の情景は、訪れた多くの俳人や浮世絵師などを惹きつけ、詩歌や版画となって世に知られるようになった。
宿場は訪れる人々を迎えることによる経済的利益の他に、木曽馬や木工品など地場産品の需要をもたらす生産・販売・運輸の拠点として賑わい、木曽谷の経済を牽引した。
→木曽路の宿場
| |
|
奈良井宿
奈良井宿は、幕府関係の公用旅行者や参勤交代の大名通行のために人馬を常備し、輸送・通信などの業務を負う代わりに一般の通行に対する独占的な稼ぎが許され、多くの旅行者の宿泊・休息のための旅籠や茶屋などが設けられていた。江戸時代中期には、宿場の規模は南北約1kmに及び「奈良井千軒」と謳われ、常時2000 人以上が働いていた。これは、宿場に職人町も構えていたためであり、奈良井宿は、木曽谷住民に許された御免白木6000駄のうち1500 駄(1駄は馬1頭が運ぶ荷物の量、約135 kg)もの材料が割り当てられ、檜物細工や塗物、塗櫛などを多く産し、近くの漆工町木曾平沢とともに地場産業の木工品や漆工品の名産地になった。
妻籠宿
妻籠宿は室町時代、木曽義仲の子孫義昌が木曽谷の南の備えとして整備した山城妻籠城の麓に形成された。江戸時代中期、規模は南北約250m 程と11 宿中最小ではあるが、人口は400 人を超えた。これは、31 軒もの旅籠と地場産業に従事する人口が多かったことによる。江戸時代初期には宿場近くで木地師と呼ばれる職人が「南木曽ろくろ細工」を生産するなど、木工品の産地であったが、江戸時代中期、森林保護政策が強化されると村の庄屋が尾張藩に請願して檜物細工の御免白木の許可を得て、網笠の地場産業をおこした。農家の女性たちの手作業による蘭桧笠は、旅行者や僧侶の移動、農作業、茶摘み、舟下り、漁業、林業、土木など広範囲の用途に晴雨にかかわらず着用されたため、木曽路を通じて全国に広まった。
→南木曽町観光協会ホームページ
| |
|
御嶽山信仰
江戸時代中期、街道整備がすすみ庶民の御嶽登山が盛んになると、全国から多くの御嶽山信仰の人々が訪れた。訪れた信者の数は、登山道沿いなどに建てられた霊神碑が数万基にのぼることからもその規模の大きさがわかる。
御嶽山と木曽路を行き来する人々によって、木曽谷の流通はさらに促進された。室町時代以来、御嶽山麓の修験者が携帯したといわれる「そば」は御嶽山麓開田の特産となり、登拝のために訪れた人々などによって、木曽谷の地場産品や薬「百草」などとともに宿場から木曽路を辿り全国に広められた。
| |
|
森林鉄道
近代に入り、御嶽山麓の森林鉄道に木曽檜を満載した列車が走る。木曽谷の人々が守り続けた木曽檜は、再び木曽の代名詞として蘇った。そして、農家や職人町、宿場など木曽谷のあらゆる人々がそれぞれの生業を活かして発展させた地場産業は、全国に名高い在来馬や伝統工芸品などに結実した。
|
 赤沢自然休養林(上松町)
|
木曽路はすべて山の中
文豪島崎藤村の『夜明け前』は「木曽路はすべて山の中」で始まる。 木曽谷の山と木曽路は、木曽谷の人々の「山を守り、山に生きる」くらしを育んだ。 そのくらしは、森林の保護、木曽路や宿場の保存、伝統工芸品の伝承を大切に思う心を培い、今も木曽谷に息づいている。
|
 阿寺渓谷(大桑村)
|
|